山形を離れているけど、故郷・山形のために何かやりたいー。こんな思いを持っている山形出身の方は多いのではないでしょうか。実は、私もその1人です。東京と山形を行き来して、その気持ちを体現している、朝日町出身の菅井敏之さんにお話をうかがいました。菅井さんの山形への思いをお伝えします。 菅井さん(以下、黒字)私は長男なのですが、大学入学と同時に山形を出て来ちゃいました。そして36歳のときに母を亡くして、父を1人暮らしにしてしまった。自分の大事な人を大事にしないで終わる人生はきっと後悔するー。そんな気持ちがずっとあって、50歳までにはサラリーマンを辞めて、山形と東京を往復する生活がしたいと考えていました。 そのためには、サラリーマンを辞めても生活していける経済基盤を持たなくてはならない。当時は銀行に勤めていたので、お金に余裕のあるお客さまに会うことも多く、その方たちに共通していたのが、不動産経営で毎月新しく入ってくるお金があるということでした。 それならばと、私もアパート経営を始めることに。6棟のオーナーとして、年間7,000万円の収入が得られるようになったタイミングで銀行を辞めました。48歳のときでしたね。(菅井さん