青函連絡船、空襲…、物語を感じる本州北辺の港町〜青森〜

青函連絡船、空襲…、物語を感じる本州北辺の港町〜青森〜

青森の町の歴史はさほど古くありません。弘前藩による江戸への廻船が許可されたことで港町開発の必要性が生まれ、白羽の矢が立ったのが青森でした。藩主が家臣に青森建設を指示したのは寛永3(1626)年。ここから青森は発展していきます。近代に入れば青函連絡船も登場。更なる発展をするも空襲によって街は壊滅。それでも復興を果たし、県都としての地位を保っています。今回は、そんな物語性の感じる青森のご紹介です。町割は東西に4本、南北に7本の街路を通して碁盤の目状にしたところを基本としていました。それ以前は善知鳥(うとう)村と堤浦と呼ばれていた地域です。南北の街路は東に流れる堤川(駒込川)の手前で終わっており、西は善知鳥沼で終点。善知鳥沼には蔵屋敷が区画され、弁財天と行人屋敷が設置されていたそうです。この善知鳥沼の場所が現在は善知鳥神社として現在もJR青森駅から東に1キロメートル歩いたところに残っています。存在が明確に確認できるのは江戸期の青森開港後に再建されてからですが、神社の由緒では東北を遠征していた坂上田村麻呂が大同2(807)年に再建したという古社であり、由緒の古さから青森発祥の地と言われています。しかし、社殿は鉄筋コン