保科正之の墓

保科正之の墓

江戸生れ。江戸前期の大名。徳川家光の異母弟。初め信州高遠藩保科家の養子。のち会津藩祖となり四代将軍を補佐。その「家訓」は藩風形成の基となった偉業を遂げた保科正之公は寛文十二年、自ら猪苗代に参られ見祢山に登り「わが身はここに納めてくれ」と家臣に命じ、墓地を定めた。