平安末期まで存在した東北政権のかけら〜平泉・中尊寺〜

平安末期まで存在した東北政権のかけら〜平泉・中尊寺〜

奥州藤原氏初代清衡が平泉に都を築き、政治の事始めとして建立したのが中尊寺です。長治2(1105)年から落慶まで22年、寺塔40余宇、禅房300余宇に上る大寺となりました。しかし、平泉追討によって中尊寺は金色堂以外すべて焼失。現在ある諸堂は鎌倉以降の再建です。鎌倉期より保護は始まり、時代時代に保護されて現在の状態まで取り戻しました。では、中尊寺寺域の丘へ参道をまっすぐ上っていきましょう。本来は火伏の神・勝軍地蔵菩薩を本尊として祀った勝軍地蔵堂の名なのですが、弁慶が戦場に赴くため三日三夜自分の立像を彫り、諸願のしるしに納めたことと、弁慶立往生の像が納められたこと、2つのことから「弁慶堂」と呼ばれるに至ったそうです。弁慶の立像は大きく、義経の坐像もあります。格天井には草花の絵も描かれ綺麗にされていました。大切に守られてきたことが察せられます。史実では存在しなかったとされる武蔵坊弁慶ですが、ここまでされると弁慶はよもや実在していたのではないか、とつい思ってしまいます。本堂なので中尊寺を総括する中心道場にあたるのですが、再建されたのは遅く明治42(1909)年になります。釈迦如来の本尊も失われていましたが、近年ようやく